運び屋と宣教師

文化の中ではしばしば、リアルタイムではほとんど評価されなかったものが後年、多くの人に発見されるということがある。 Dusterというアメリカのバンドを例に挙げると、90年代に数枚のアルバムを残して、2000年に活動休止した後、2019年にNumero Groupがレコードを再発したことをきっかけに、爆発的に再評価がなされ、今ではTikTokで彼らの曲を使った動画が数千万回再生され、Spotifyの月間リスナー数は290万人に登る。
私もその再評価の流れの中で、彼らのことを初めて知ったのだが、「約20年の沈黙の後、名門レーベルからの再発やTikTokでのバズにより「発見された」」という見え方は、少し調べると必ずしも事実ではないことが分かる。確かにバンドは沈黙していたかもしれないが、リアルタイムで彼らの音楽を聴いていた人たちを筆頭に、熱心なファン同士がネット掲示板で日々交流していたり、レーベルに何度も再発を求めたり、Rate Your Musicでの評価の上昇など、水面下では常に求められていたバンドでもあった。

「熱心なファン」と大掴みに書いた彼らが集まっていた4chanの「/dust/」スレッドというものがかつてあったらしい(現在は見れなくなっている)のだが、そこでは、Dusterの全ディスコグラフィ、デモ音源、ライブ録音、写真、歌詞、インタビューの断片、別名義情報などが集まり、スレッドの紹介文には「20人くらいの異常なまでにDusterへ献身的な人たちの集まり」と自虐的に書かれていたという。(AIが「異常なまでに」と訳した「obscene」という単語は通常「卑猥な」「下品な」「常軌を逸した」など、「道徳から外れた」ニュアンスを根底に持った単語で、日本だと「【全裸待機】Duster復活wwwwww【17年目】」みたいなスレタイになるのかもしれないどうでもいいか)

自分の好きなものを他人に薦めることをよく「布教」と言ったりするが、このときの「布教」からは自己主張と自己犠牲の香りがする。対して、「献身的」という言葉が、ある部分を的確に言い得ていると思うのは、音楽活動をする中で出会った「熱心なファン」と私が思っている人々も、独特の匿名性と見返りの求めなさを持っているからだ。彼らは、全ての商品を買い、全てのライブに来るのにネット上に何の感想も残さないような人たちだったりする。「おすすめの音楽は?」と聞かれて初めてその音楽について語り始める人や、何度引っ越しても作品を捨てないとか、その熱を持った内面が、作家から見るとほとんど死角かつ寡黙で、さながら何かの調査員や運び屋のような「バレたくない人」的振る舞いをすることが多い。

ある人がebayで買ったDusterのレコードには、下記のようなメモが入っていたというエピソードがある。
「Dusterは過去15年以上、私にとって非常に重要なバンドでした。どうか大切に扱ってください。Up RecordsとDusterは、95年から05年の10年間における音楽史において、非常に特別な存在です。お元気でいらっしゃることを願っています。」
熱心なファンにしか書けない血文字である。こちらの方が運び屋と呼ぶにふさわしいか。
この話で良いなと思うのは、メモに重心を置いた「手放し方(意思)」は実は関係なく、単に手放すだけでも誰かが勝手にそれに出会うという、古物全般が持つ面白さの方だ。まさに“落とし物と拾い物”(— 福尾匠, 2026)である。落とす(宛先なく手放す)ことで事後的に、彼は誰かの元へこのレコードを運んだことになったのだ。

中古レコードに添えられたメモや古本の書き込みなど、ほぼテロリズム的に人の心に引っ掻き傷をつけるものが好きだ。今、カルチャーと経済の話をするとき、つまり注目されることと、それにまつわるデザインの話をするとき、人の心を「立ち上がらせる」ものの話をしていると思うのだが、こういったメモの、強制的に人を「座らせる」部分が好きだ。
私は「子供が20歳の時俺は54か」ということを思うとき、自分の中の全てが座る感覚があるのだが、それは「ある地点」だった自分の人生が、過去から未来までの面になり、凸凹を伴った「地形」になるような感覚で、そこにブルーシートを敷いてこれを書いている。

さて、話変わって、私にはジ・オクトパスという音楽家の運び屋としての側面がある。
Dusterよろしく約20年間、彼の音楽を「良い」と言い続けている。
そして、私は透明で寡黙なファンではない。海外の音楽文化における、ファンジンや個人ブログの層の厚さ、良いファンカムの多さ、海賊版的な物への積極性にいつも憧れていたし、DIYで小さな経済圏を作ることが自分のやりたいことだとずっと思っていた。「やる側」や。彼の『Octopus Tapes』と『半夏生』という作品を自分たちのレーベルからリリースして以降は、自分のように「良いと言い続けている人」が少しだけ増えた実感がある。

驚くべきことに彼は今年、19年ぶりに『めまいのなおしかた』というアルバムを作った。
そのアルバムは傑作で、それが傑作であることを、私よりも高い解像度で見抜いた島崎森哉が運営する造園計画というレーベルからリリースされた。しくった。
Dusterにおける「/dust/」スレッドの献身性と、Numeroからの再発は結構繋がっている。NumeroがCodeineやBedheadなどの90’sスローコアバンドの再発を始めると、レーベルには何件も「いつDusterをリリースするの?」というメールが届いたという。しかし、そこからTikTokのバズまで一直線かというとそうではない気がする。
何の話をしているかというと、もし、ジ・オクトパスが、この先何かの間違いでたくさんの人に聴かれることになるとしたら、それは私が20年間保存してきたものとは、ほとんど無関係にそうなるんじゃないかという気がしている、みたいな話だ。
そういうことはきっと、運び屋でも宣教師でもなく、ミツバチのような人によって成されるはずだからだ。それが花であることの証左として選ばれてランダムに運ばれていく。
こういうと運任せに聞こえるかもしれないが、実際、あー、不確定な未来のことを考えると眠くなってきたので終わります。